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KEMURI インタビュー - 激的アルバイト——ク!

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日本最大級のアルバイト求人情報サイト“バイトル”と激ロックによる“激的アルバイトーーク!”の今回のゲストは、1stアルバム『Little Playmate』のリリースから20周年を迎えたKEMURI。新作『FREEDOMOSH』を携えたツアーも好評のうちに終え、クラウドファンディングで支援を募り無料開催するというツアー、['FREE SHOW!' ~SKA BRAVO SPECIAL TOUR 2017~]も決まり、新しい試みでのライヴ活動も注目されている。今回は、フロントマンの伊藤ふみおを迎えて、アルバイトやKEMURIの今に至るまでの話をうかがいつつ、普段は経験できないような非日常的なアルバイトが体験できる企画“ドリームバイト”で選ばれた大学4年生、後藤和輝さんにもKEMURIのファンとしての熱い想いや、質問をぶつけてもらった。

KEMURI

Profile

伊藤 ふみお(Vo)

バイト先の先輩をきっかけに、サッカー少年が音楽に傾倒していって“バンドやりたい”ってなっていった

KEMURI

-今回は伊藤さんが経験してきたアルバイトのお話をうかがっていきたいのですが、これまでどんなアルバイトをしてきましたか。

伊藤:アルバイトはたくさんやりましたよ。最初にやったアルバイトは、渋谷のファイヤー通りにある喫茶店なんだけど。この間、うちのマネージャーと何人かで30年ぶりくらいに行ったんだよね。そこから始まって、学生のころはお歳暮やお中元の配達のバイトとか、音響システムの設営のバイト──競馬場とか国立競技場の競技場内に音響システムを配置するというバイトとか、いろいろやったね。

-一番記憶に残っているのはどんな仕事ですか。

伊藤:一番は、最初にやった喫茶店でのアルバイトかな。当時18歳になっていたのかな。ちょうど、高校のサッカー部を引退してから、大学生になってまたサッカー部の活動が始まるまでの半年くらいやっていましたね。そのあとは、そのバイト先を友達に紹介して、僕はまたサッカーに戻ったんです。大学時代も、バイトをするのは部活がオフのときだから、前期の試験が終わったころのお中元の時期と、お歳暮の時期に配達をするとか。春休みに配線の仕事をしたりという感じでした。

 

-では、長期でやるようなことはあまりなかったんですね。

伊藤:体育会系のサッカー部だったから、練習もあってなかなかコンスタントにはできないんですよね。ただ、うちは父親を亡くしていたので、バイトはやりました。短期間で割りのいいバイトというかね。肉体労働はなかったんだけど、だいたい日給が1万5千円から、最低でも1万円くらいのものを紹介してもらったりしてやってたかな。

-サッカーにも打ち込んでいたようですが、バンド活動はどのあたりから出てくるんですか。

伊藤:初めてバンドをやったのは、高校3年生の卒業ライヴでした。ちょうどそのころに、喫茶店でアルバイトをするようになったんですよね。そのオーナーというのが、もともとCOOLS(※1975年結成のロックンロール・バンド。舘ひろしも在籍)上がりの人で。渋谷の不良少年たちの、舘ひろしさんとかあのへんの人たちの後輩だったんです。舘さんは来なかったんだけど、COOLSのジェームス(藤木)さんとかシャネルズの人とか、いろんな人がお店に来ていたんだよね。そういうテレビで見るような、しかもちょっと不良な人たちに会ったり、あとは一緒にバイトをしていた先輩が、原宿の古着屋さんに顔の利く古着のバイヤーをやっていた人で。当時、古着も大好きだったから、その人を兄貴分として慕うようになって。先輩が、西麻布にあったTOOL'S BARでDJなんかもやっていたんですよね。それまでほとんど音楽はわからなかったんだけど、Eddie CochranやBuddy Hollyから聴くようになったり。それをきっかけに、サッカー少年が音楽に傾倒していって、“バンドやりたい”となっていったんです。それで高校生の卒業コンサートに出て。

-そのときはどんな曲をやったんですか。

伊藤:いろいろやりましたよ。THE ALARMとかTHE JAMとかのUKバンドや、あとは何やったかな……Bryan Adamsとかもやった。

-Bryan Adamsとはずいぶんと意外です(笑)。

伊藤:当時は、古着のジーンズに、ヘインズの3枚パックのTシャツを着て、ショットのダブルのライダースに、レッドウィングのエンジニア・ブーツを履いて(笑)。

-当時の高校生としてはおしゃれな感じなのでは。

伊藤:でも、当時はDCブランド大全盛のときですからね。高校生でおしゃれな人っていうとDCブランドで、六本木のディスコみたいな感じだったんですよ(笑)。それとは全然違いました。洋服は好きだったんだけど、DCブランドを買えるほどお金がなかったから。でも当時は、今は3,000円くらいで買える普通のリーバイスの古着でも、1万円近くはしてたし、今なら数百円で買えるヘインズのTシャツも、高かったしね。今に比べると物価が高かったです。

-アルバイト代は、ファッションやバンド活動だったりに?

伊藤:まぁ、そうですね。ガールフレンドと飯食いに行ったり、洋服代にしたり。あとは体育会系のサッカー部だったから、後輩を飲みに連れていくんですよね。バカみたいに飲むから。後輩に奢る酒代はバイトで作ったりしてた。

KEMURI

-大学を出てからは就職されたんですか。

伊藤:就職はしなかったです。大学3年生の春に自分たちで企画をしてライヴをやって、そこでなんか掴めたら、リクルートスーツは作らないと思ったんです。リクルートスーツを買うと言っても、今みたいに安いスーツがなかったんですよ。だからスーツを買うなら、無駄にできないなという感覚があったんです。で、そのライヴで何かが掴めたらリクルートスーツも作らないで、大学4年生になったら、卒業後すぐに音楽ができるような時間に充てよう、と考えていて、それでライヴをやったんです。そのころはモッズコートで(笑)。映画“さらば青春の光”の主人公みたいな気分で、街を歩いていたんです。もうエンジニア・ブーツを履いてなくて、ロークっていうブランドのタッセル・ローファーで。古着は古着なんだけど、スリムのスラックスで、MADNESSとかTHE SPECIALSのTerry Hallみたいな格好をしてましたね。Bryan Adamsを歌っていたときから、3年後くらいの話なんだけどね(笑)。

-だいぶ変化しましたね(笑)。

伊藤:スカに傾倒していたから、THE SPECIALSとかをカバーしたライヴで、「Nelson Mandela」(THE SPECIAL A.K.A)とかをやってました。“今、みんなが意識を持たなきゃいけないと思ってる歌を歌います”とかMCで言ったりしながらね(笑)。なんの根拠もなく音楽やろうと思っていたし、それでスターになったような気分になっていました。当時は、ウルフルズがバカ売れしていたような時代だったんだよね。同い年なんだ、すげぇなって思いながら。大学を卒業してからは、バイトはやってたけど、いわゆる月曜から金曜までみたいなバイトじゃなくて、バブルだったからいろんなバイトがあったんです。友達のミュージシャンとパーティーで1時間くらい演奏して3万円とか、結婚式の二次会で演奏するとかあったんですよ。結婚式の二次会で演奏したら、“あいつらいいな”、“今度、俺が結婚するからそこでも演奏してよ”っていうので、2年くらいは続きましたね。そのときに一緒にバンドをやっていた連中は、未だに音楽やってるし。ソロで一緒にやってもらっているスティールパンの原田芳宏とか、ナベサダ(渡辺貞夫)さんのバンドで弾いているベースのコモブチキイチロウとか、今は辞めちゃったけどザ・スペース・カウボーイズというバンドをやっていたドラムの奴とか。結構、みんなそのあともそれぞれで活動していたんですよ。

-そのころ、オリジナルのバンドはどうだったんですか。

伊藤:オリジナルのバンドは、全然でした。月に1回ライヴをするくらいで、芽が出なかったですね。それで、4年やったくらいで解散するんです。その間に、営業バンドではいろんな歌を歌っていたんですよ。Marvin GayeとかStevie Wonderから、いわゆるチークタイムからダンシングタイムまでなんでもやっていたんだけど、そっちは超快調(笑)。贅沢をしなければ、それで食えるくらいの営業があったんだけど、バブル崩壊とともにパッタリと仕事がなくなるんだよね。

-営業のバンドでいろんな音楽をやったことで、身についたことや感じたことはありましたか。

伊藤:お金を稼ぐということと、音楽で好きなことをやるのは全然違うんだなということと。望まれていることをやるのと、自分が望んだものをかっこいいと思ってもらうことって、違うんだなっていうのはすごく学びました。あとは歌かな、楽器は未だにそんなに弾けないんだけど、名曲をたくさん歌ったことは、ヴォーカリストとしてためになったんじゃないかな。喉も鍛えられたと思うし。パーティーなんて、何もないところにスピーカーを立てて、ヴォーカルにモニターなんてないから、それでも音程をなるべくとって歌わないといけないし。“音程外してたよ”って酔っぱらいに言われる世界だったから(笑)。そういうのは鍛えられたかな。

-以前、米軍のホテルで働いていたというお話を聞きましたが、それはそのあとですか。

伊藤:そのあとです。そのバンド、PANINOで、インディーズで1枚CDを出せることになったんだけど、録音しているときに関係がギクシャクしてきて。アルバムが完成するころには、解散するかという話になっていたんですよね。何が原因だったかわからないんだけど。アルバムのリリース・ライヴが解散ライヴみたいになって。もうやってらんねぇなって。当時もう、27歳とかだったのかな。最初は、大学を出て3年だけバンドをやらせて、と母親に言っていたんです。それが4年になり、5年になり、そろそろかなというのもあって。バンドを解散して就職しようと思って、唯一働けたのが、米軍のホテルのセキュリティだったんです。英語が喋れたからね。そこでバイトを始めました。それは月曜から週5日というものでしたね。

-英語はどこで習得していたんですか。

伊藤:高校生のころ、父親が亡くなってすぐに、今のうちに外国を見てこいと送り出されたんです。1983年とかだったかな。

-なるほど、そこからKEMURIへと至っていく流れになりそうなので、ここでドリームバイトの後藤さんにバトンタッチして、KEMURIについていろいろインタビューしてもらいたいと思います。

一度は音楽から離れて働き始めるんですけど、“これでいいのかな”という思いはどんどん大きくなってきた。それがKEMURIに繋がっていくんです

KEMURI

後藤:大学4年生の後藤和輝と申します、本日はよろしくお願いします。

伊藤:大学4年生ですか。よろしくお願いします。

後藤:KEMURIさんが走り始めて以来、もう20年以上経っていますけれど、活動開始してから今までずっと“PMA(Positive Mental Attitude)=肯定的精神姿勢”を活動の軸として掲げています。KEMURIのこれまでの20年は正直いろんな大変なこともいくつかあったと思います。それでいながら、どうしてずっとPMAを掲げて、それを音で体現されているのか、ここまで走ってこれたのかについてうかがいたいです。

伊藤:ひと言で言うとダメダメだったんですよ、人生がね。僕が大学を卒業したのが、1989年のバブル全盛で絶頂期だったんですけど。体育会系の部活出というと、みんな銀行や証券会社だったり、どこでも行けるような状況だったんです。そんななかで“就職しない”と言って音楽を始めて。周りには、絶対にやめろって言われていたんですよ。で、音楽を始めたものの全然うまくいかなくて。そういうなかでPMAという言葉に出会って、そうだよな、頑張ろうって、それにすがるように生きていて。でも1回音楽から離れるわけだよね。最初のPANINOを解散して。それでこれでいいのかなと思いながら、ホテルで働き始めるんです。給料も良かったし、お金はあるんだけど、これでいいのかなと思いながらの生活が1年くらい続くと、その“これでいいのかな”がどんどん大きくなってきて。

後藤:そうだったんですね。

伊藤:PANINOのときは、時の権力者を揶揄したり、浮かれているような人たちをディスったりする歌詞ばかり書いていたんだけど、感動も共感も得られないままにバンドを解散して。働き始めたけど、これでいいのかなっていうのが大きくなってきたんです。それで、アメリカにもう1回住んでみようかなと思って。アメリカに行くなら、自分の名刺代わりになるものを何か持って行きたいと思ったんです。音楽が好きだから、音楽を作って名刺代わりに持って行ってみようと始めたのがKEMURIだったのね。それでどういう音楽をやろうかなと考えたら、やっぱりスカがいいなと。で、どんな歌詞を歌いたいかと考えたら、自分に対して真摯な姿勢で、願えば叶うというポジティヴなアティテュードを真ん中に置いた歌詞を歌ってみたいなと思ったんです。昔は自分が笑っていたような歌詞かもしれないけど、こういう歌詞を書き続けようと思って。PMAをど真ん中に置いて、歩み始めたのがちょうどそのくらいのとき。それが今に至るんです。

後藤:個人的に伊藤ふみおさんが描く、本当に強い人にしか書けない力強い歌詞が好きで。例えば、『F』(2015年リリース)というアルバムに収録されている「HATE」は──“HATE=憎しみ”なんだけど、“こんなに熱い感情を俺の人生に与えてくれてありがとう”ということまで歌っていますし。ラストの「PAIN」では、“痛みなくして進歩はない”と歌っています。これは強い人にしか書けない歌詞だなと思っています。あいつを嫌いだって言ってしまうのは簡単ですが、許すことというか、認めるというか、そういうことって難しいと思うのですが。伊藤さんが歌詞を書くのはどういうときで、書くときに大切にしているのはどんなことですか。

伊藤:もう今は、直球を投げるだけですね。例えば『F』を作ったのは2015年だったと思うんだけど、その前のアルバム『RAMPANT』(2014年リリース)を録音し終わった瞬間から、次の『F』のその歌を歌う瞬間までの自分をまず思い出そうとするんです。そのときを切り取った曲が集まることに意味があるのがアルバムだからね。今、この時代、自分にとっての今の時代というのは気にすることですね。それがピンときたときに、言葉が降りてくる。それを自分の感情に対してストレートな言葉で、一番ピンとくる、強い言葉で書こうと思うんです。あまり歌詞について、これはこうですという解説をしない方がいいと思っているんだけど、あえて言うと決して「HATE」も、相手のことは許してもいないし、未だに大っ嫌いだけど(笑)。でも、自分の力にするかしないかは自分だからね。人ってやっぱり、怒るし妬むし許すし、喜ぶし、全部があって人だと思うんですよね。それは、20年前よりも今の方がそう思うかな。

後藤:次の質問です。KEMURIさんは今年11月に入場無料のツアー、['FREE SHOW!' ~SKA BRAVO SPECIAL TOUR 2017~]を開催します。このツアーは、KEMURIさん初の試みであるクラウドファンディングを用いたツアーで、1stアルバム『Little Playmate』の再現ライヴということになりました。公式Twitterを利用して、リターン・グッズの色や模様をファン投票で決めたりと、ファンが参加するようなライヴやイベントはとても珍しくて、自分自身も楽しいなという気持ちになっているんですけど。発案から開催に至った経緯と、このツアーにかける意気込みをお聞かせ願えればと思います。

伊藤:意気込みはね、ものすごいですよ(笑)。目標金額を達成したいという意気込みと、あとはこれがどれくらい面白いものなのかっていうのをわかってもらいたいというのがあるね。これ面白いだろう? っていうのがあるんですけど、なかなか伝わりきらないのもあるんです。だから一生懸命やってる。で、なんでこういうライヴをしようかと思ったかというと、最初から応援してくれている人、KEMURIに興味がある人と、いろんなライヴを作れないかなっていう気持ちがあったんです。KEMURIが音楽活動を始めてから、ずっと同じ方法でライヴをやってきているんですよね、当然チケットを買って観に来るというね。始めたころは3人くらいしかいなかったかもしれないけど、それが30人になり、300人になり、3,000人になり、と今に至るんだけど、ずっと変わらないわけ。そういうところも変えていけないかなというのが、まずは始まりでしたね。たまにはタダでライヴやりてぇな、っていうのもあるし。平日の仕事が終わったあとにふらっと遊びに来るにも、タダだったら来やすいじゃないですか。

後藤:たしかにそうですね。

KEMURI

伊藤:居酒屋に行く代わりに、どこかのライヴ会場に行って、ビール1杯飲みながらライヴを観られるようなね。今回も対バンがいるけど、3バンド出てチケット代が例えば4,500円だったら、人情としては頭から観たくなるよね。僕はそうなんです。でもタダだったら、『Little Playmate』の曲をちょっと聴きに行けたらいいかなとか、最後の20分でも来たい人が来やすいようなライヴをするには、やっぱりタダというのがよかったし。それでまずやってみようと思って。クラウドファンディングにしたのは、KEMURIはだいたい今4,000円プラス消費税くらいのチケット代でやっているんだけど、ものすごくKEMURIが好きな人でも、あの曲1曲聴いて良かったからちょっと行ってみたいなという人でも、4,000円なんですよね。

後藤:はい。

伊藤:だけど、ちょっと興味持って、ちょっと観てみたいけど、払いたくない人はタダでいいわけ。でも、KEMURIだったら1万円払っても観たいですよという人がいたり、その人なりのライヴを作ってもらえる方法が、クラウドファンディングにあったんですよね。今の時代にやるっていうのが面白いんじゃないかなと思って、CAMPFIRE(※クラウドファンディングを実施できるサイト)を活用させていただいて今回の実施になったんです。

後藤:2014年に始まったこの“SKA BRAVO”という企画イベントでは、毎回海外のバンドを呼んでいます。今年も海外から2バンドを呼ぶことがアナウンスされていますが、この日本国内でのイベントにおいて、海外のバンドを呼ぶ狙いというのはなんですか。

伊藤:日本人は外を知らないといけないんです。開国の昔からね。そうやって外を見て、実際に外に行って、日本に持って帰ってきて──真似かもしれないけど、それをまず広げていくのをずっとやらないといけないと思うし、そういう活動をしたいんです。それがわかってもらいたくてやっているんですよね。特にもともと洋楽好きだし、スカ・パンクからきているから、海外バンドに来てもらってライヴをやってます。

後藤:“SKA BRAVO”は日本国内でのイベントですが、KEMURIさんは以前から海外でも精力的に活動をしています。昨年10月にはイギリス、11月にはアメリカでツアーを回りましたが、海外のツアーでは、日本と違ってどういうところが大変で、どういうところに惹かれるかなどあれば教えてください。

伊藤:まず、昨年のツアーは結構サウンド・チェックもできたので良かったんですけど、やっぱり音響は大変ですね。今では、勝手を知ってる会場で、KEMURIのことをよくわかっているスタッフにセッティングをしてもらってライヴをやっちゃってるから。それがなくなるのが大変ですね。あと、昨年のUK、USツアーで大変だったのは、移動式のホテルみたいなバスでの移動だったんです。ものすごく楽しかったんだけど、プライバシーを守るには、薄いカーテン1枚閉めるだけで(笑)。それは大変といえば大変だったかな。あとは、そのツアー・バスで何百キロも移動するんだけど、ツアー・バスのルールがあって。トイレの使い方も厳密なルールがあって、自分の生理現象がどうあれ従わなきゃいけないのよ(笑)。それに合わせるのが結構大変だった。したいときにできないみたいな感じだったから、もがき苦しんでるメンバーもいたかな。

後藤:大変なことも多い一方で、何度も海外ツアーに行く意味とはどういうものですか。

伊藤:大変なことも多いんだけど、ほんの少しかもしれないけど、大きな喜びがあるんだよね。例えばロンドンのライヴは、ブリクストン・アカデミーというライヴハウスでできたのは大きな喜びでしたね。僕にとっての憧れのライヴハウスだったので。それで会場に行ったら、KEMURIだけを観に来たんだという男子グループみたいなのが何組もいるわけ。しかも、イギリス人かと思ったら、俺たちはスペインから来たとか、アイルランドから来たとかで。“『Little Playmate』を聴いてから20年待ってた”って言うんだよね。それなんですよ、なるべく行けるように頑張りたいなって思っちゃうのは。英語で歌っていた意味があったなとか。

後藤:日本語の歌詞を歌ったときの海外の方の反応はどうなんですか。

伊藤:それがね、「Ato-Ichinen」(『Little Playmate』収録)という曲とかは、昔から聴いているらしくて、一緒に歌うんだよね。新しめの日本語詞の曲は、今回やらなかったからわからないんだけど。イギリスやアメリカではそうだったかな。アメリカでは、英語の歌詞の曲だけど、さっき話していた「HATE」がすごかった。ちょうどツアーが、今の政権の大統領選挙の1週間くらいあとで。ツアーをする会場、する会場の外で3,000人規模の反対デモをやっていて。こんなにみんなイヤなんだ、っていう感じだったの。当然スカ・パンクのライヴに来るような人たちは、反現政権みたいな人が多かったようで、「HATE」なんて初めて聴く曲だと思うんだけど、みんな覚えて歌ってた。“Hate! Hate! Hate for good!”、つまり“良きことのための憎しみ”と歌っている曲なんだけど、そのサビのメロディをみんな覚えて5回くらい繰り返して、歌ってた。泣きながら歌ってる奴とかもいてね。日本語の曲でも初めて聴くような英語の曲でもそういう反応があって、びっくりしました。残っていく曲ってそういうものなんだなって思いましたね。

インタビュアー:吉羽 さおり

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