スターアルバイト烈伝
蛭子能収
蛭子能収
PROFILE

1947年10月21日生まれ。長崎県出身。
趣味はギャンブル(特に競艇)。看板店、ちり紙交換、ダスキン配達などの職業を経て、33歳「ガロ」(青林堂)で漫画家でデビュー。顔に汗をたくさんかいたキャラクターは誰でも「蛭子さんのイラスト」と分かるほど。競艇好きが高じて、競艇雑誌「マクール」の表紙イラストも手掛けている。また、独特のキャラクターでバラエティ番組「ネプリーグ」(CX系)やドラマ「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」(CX系)、映画「二十二才の別れ」(07年・春 公開予定 監督:大林宣彦)など、タレント、役者としての芸能活動にも積極的に取り組んでいる。

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蛭子能収 Yoshikazu Ebisu 今だから話せる、高校時代のバイトのエピソード。シナリオライターを目指し上京して始めた変わったバイト、独特な雰囲気の蛭子ワールド全開!?あの有名人のアルバイトにまつわるさまざまな話をお送りするこのコーナー。 毎回、下積み時代の隠れた努力や、おもしろいエピソードをお届けします。
もう時効!?“バスの車掌”バイトでのナイショなエピソード

蛭子能収初めてのアルバイトは高校生の時で酒屋さんでした。家庭の事情もあって、とにかく「自分で稼がないと」って思いまして。酒屋さんといっても、カウンターでお客さんにお酒を飲ませる「一杯飲み屋」さんみたいなお店で、おじさんに日本酒をついだりしてました。表面張力で山盛りになるまで入れないと怒られるんですよ(笑)。学生だったし、酔ったおじさんによくからかわれましたけど、全然イヤじゃなかったですね。

高校2年生になってバスの車掌さんのアルバイトをやりました。バスか停留所にアルバイト募集の紙が貼ってあって、それで決めたんです。その頃は、ちょうど女性の深夜労働についての規制が厳しくなってきていて、男の大学生とか高校生をたくさん採用していたんですよ。午後6時から夜11時過ぎくらいまで働いていたかなあ、バスに乗って「発車オーライ」とか「次はドコ」とか停留所の名前をアナウンスしたり、運転手に発車の合図を出したりする仕事なんです。アナウンスのほかに切符を車中で販売したり。切符を買わずに降りるときに直接お金を払うお客さんもいるんですけど、車掌カバンの中へお金がどんどん入っていくのが、なんとなく楽しかったです(笑)。

バスの運転手さんとは仲良くやりましたけど、よく怒られもしましたね。「オマエの言い方は悪い」「発音が悪い」とか「そんな言い方じゃ全然わかんないんだよ」とか。とにかく運転手は自分が早く帰りたいから、「お客が降りたら、ドアを閉める前に『発車オーライ』って言えっ」て言うんですよ。「お前のタイミングが遅すぎるから、車が早くだせないだろ」って(笑)。

もう時効だと思うので言っちゃいますが、実は車掌カバンからお金を自分のポケットに入れた事があるんです。といっても、余計にお金が欲しかったわけじゃなくて、最終のバスまでバイトをやると、家に帰れなくなるんですよ。最終停留所からある程度のところまではそのバスで連れてってくれるんですけど、家までかなり遠い場所で降りて、真っ暗で長い距離を歩いて帰らないといけない。それで、悪いと思ったけど、タクシー代だけこっそり車掌カバンからポケットに入れちゃってたんですねえ。確か80円くらい。日給が300円くらいだったんで、タクシー乗っちゃうとバイト代に響いたんですよね。自分の言い訳としては「交通費支給」の感覚でした(笑)。もちろん、読者の皆さんは真似をしないでください。でも、「交通費支給」はけっこう大事なポイントだと思いますよ。
シナリオライターを目指して上京、そして結婚

自分は、シナリオライターになりたくて23、4歳のときに東京に出てきたんです。東京に来てからは、自分の所持金がどんどん無くなっていくのが怖くて、近所で日雇いのバイトを探したんです。それで見つけたのが測量のアルバイトでした。 これがすごく退屈なんですよ(笑)。棒を持って道路の端にただ立つだけなんです。言われるままに移動すると、測量士の人が遠くからカメラみたいな物で測量してるんですけど、何をやってるのかさっぱり分からなくて。このバイトは雨天中止だったんですけど、自分のときはなぜか雨に降られることが多くて、収入が安定しないのですぐに辞めてしまいました。

次に看板屋さんに就職したんですが、この仕事はトラックに乗って、どっかに看板を取り付けにいく仕事がメインで、肝心の看板はなかなか描かせてもらえないんですよ。それで下働きのような仕事に嫌気がさして、当時付き合っていた恋人が長崎から出てきて、結婚することになったのを機会に辞めてしまいました。 その頃はもうシナリオライターではなく、漠然と漫画家を目指し始めてましたね。

給料差し押さえで家計のピンチ!慌てて見つけた日払いバイトは…

蛭子能収看板屋さんを辞める直前に、社用車を雪道で横転させちゃったので、その修理代として給料を差し押さえられたんですが、修理代が給料よりも多い金額だったんですね。それで女房に借金して支払ったんですよ。そのせいで看板屋さんを辞めた後、お金が全然なくて慌てて日払いを探したんです。

それで見つけたのが、ちり紙交換のアルバイトだったんです。ちり紙交換は日払いなんですけど、出来高制でその日の働きによって収入が全然違うんです。 まず会社から車を一日いくらかでレンタルして、ガソリンも自分で入れて、交換するためのちり紙とかトイレットペーパーも自分で仕入れて、それを積んで回るんです。会社に戻ってきたら古新聞を量って、その日の給料をもらうんですね。

アルバイト募集要項には「日給が1万円」って書いてあったんです。当時にしてはすごくいい金額なんですけど、実際のところ固定じゃなくて「がんばればだいたいこれくらいになる」ってことだったんですね(笑)。

ちり紙交換のアルバイトの知られざる仕組みとは!? 蛭子能収

ちり紙交換のアルバイトを始めて、最初の3日間は見習いとして他の人について回ったんです。その時もやっぱり出来高で給料をもらったんですけど、なんと赤字になったんですよ。ちり紙代とかガソリン代とかいろいろ差し引いたら、自分の給料が一銭もなかったんですね。「1日中働いてこれはまずいな」と思ったんですけど、「最初はみんなそうだから」って言われて、とりあえず続けてみたんです。そうしたら、3日目くらいに1,500円くらいかな、ちょっとだけ儲かったんですね。

ちり紙交換で街を回る時、最初は恥ずかしくて車のスピードを出し過ぎちゃうんです。マイクで「毎度おなじみのちり紙交換でございます~」ってしゃべるのが恥ずかしいもんだから、どうしても車のスピードが速くなっちゃって、お客さんが慌てて追い掛けて来ても、もう間に合わないような感じで(笑)。 でも、だんだん仕事に慣れて上手くなってきたら、ちゃんと稼げるようになりました。真面目にやれば本当に1日1万円の給料になったんです。当時の一般的な日給が3,000円くらいだったから、かなりいい稼ぎですよね。

僕が回っていたのは東京の三鷹の辺りだったんですけど、担当の地域というのは特になくて、みんな適当に好きな所へ行くんです。「縄張り」とかもなくて、本当に適当なんですよ。 車での移動は一人なんで、気楽で良かったですね。昼飯も自分の好きなものを好きな時間に食べられるし。でも気楽なあまり、気がつくと「多摩川競艇場」の方になんとなくコースを取ってしまうんですよね。それが一番マズいんですけどね(笑)。

ついに漫画家としてデビュー!しかし現実は…

給料もよくて気楽なバイトだったけど、結構重い荷物を上げ下げするんで、ひどく腰が痛くなるんです。1日にだいたい1トンくらいの古新聞を集めてましたから。かなりの量ですよね。
そんな時に「ガロ」(青林堂)という雑誌に投稿した漫画が入選したんで、これを機に漫画に専念しようと思ってアルバイトを辞めました。その漫画は「パチンコ」ってタイトルなんですけど、ちり紙交換してる男が主人公で、「雨が降って仕事が休みになったからパチンコに行こうか」という男の話なんです。それが入選したんだから、バイトが役に立ったと言えるかな(笑)。

アルバイトを辞めたものの、「ガロ」は原稿料が出ないことで有名な雑誌だったんで、漫画だけでは食えないんですね。そこでアルバイト情報誌で、漫画が描けるよう「とにかく早い時間に終わる仕事」を探しました。
そこで見つけたのがダスキンの配達の仕事だったんです。100人くらいの顧客がいて、モップを交換する仕事なんですけど、作業が早く終われば午後3時には終わるし、ちり紙交換に比べたら全然楽だったんで、結構長く続けてしまいました。アルバイトとして4年くらいやったかな。それで段々と漫画を描く気がうせてきて、「もうダメだな、サラリーマンでもいいや」って、半ば漫画家をあきらめ気味でダスキンの社員になってしまいました。社員になればボーナスとか保険もつくし、子供も大きくなってきていたので、ちゃんとしたほうがいいかなとも思ったんですね。

漫画家としての人生を決めた、二人組との運命的(?)な出会い 蛭子能収

「ガロ」は、描けば掲載されるんですけど、「何日までに描いてください」って注文は全然ないんですよ。注文がこないと、だんだん描かなくなってきますよね。向こうも、お金が払えないから注文できないんです。
ところが、30歳くらいのときに、ある人から「連載漫画を描いて欲しい」という電話がかかってきて、池袋で会うことにしたんです。会ってみたらヒッピーみたいな変な二人組が「自分達の雑誌に、隔月連載で漫画を描いてくれないか」と言うんです。その雑誌は「JAM」という自販機でしか売ってないアンダーグラウンドな雑誌で、僕はよく知らなかったんですけど「こういう本です、一応表紙はエロな感じに見えるんですけど、中身は自分たちが好きに作ってるんですよ、自分たちはこれを“ゲリラ”だと思ってるんです」って、とにかく熱烈にアピールされまして(笑)。中身を見たらかなり過激な内容だったんですけど「蛭子さんの好きなように描いてくれていい」って言うんで、描いたんです。そこで初めて原稿料らしい原稿料をもらったんですよ。隔月でキチンと締め切りもあったし。それでこの二人を信用するようになったんです(笑)。

この雑誌は1年くらいで廃刊になってしまったんですけど、すぐ「ヘブン」って雑誌が出て、そこにも描きました。その頃には原稿料をキチンともらえていたので「これはもしかしたら漫画家でやれるんじゃないか」と思って、ダスキンを辞めることにしたんですね。

その二人に「会社を辞める」ということを話したら、「それなら他の編集者も紹介しますよ」と言ってくれて、出会いが広がっていって、定期的に漫画の収入が入るようになったんです。だから「JAM」の編集さんに会っていなかったら、漫画家になってなかったかもしれないんで、すごく感謝しているんです。その人は今「高杉弾」という名前で、雑誌などでコラムを書いたりしています。

アルバイトでは、あまり稼ぎ過ぎない方がいい

バイトを選ぶときに“自分の好きな仕事”を選んだことはないですね。「給料がいいか」もしくは「漫画を描くための条件に合うか」ということでしか選んでないです。何よりそれが第一でした。

とにかく、アルバイトの目的は“お金を稼ぐこと”だと思うんですけど、本当に自分に必要な額だけのお金を稼げれば、それでいいと思います。稼ぎ過ぎると無駄使いをしそうな気もするし。そのためにたくさんの時間がアルバイトに取られてしまうし、そうすると本当にやりたいことが分からなくなっちゃう。アルバイトのコツっていうのは「本当に必要な額だけお金を稼ぐ」これでいいんじゃないかと思います。

バイトル情報局